2012/03/28
【概要】
「鏡の国のアリス」のように、鏡像関係にある左右反対の立体構造をもつ光学活性分子を簡便合成する新手法や新概念が待ち望まれている。左 右どちらか有用な物質だけを効率良くつくる方法は大変難しく、原料と触媒を精密設計し、その上反応条件を最適化するなど、豊富な経験と高度な知識、そして 巧みの技を必要としていた。
奈良先端科学技術大学院大学(学長:磯貝彰)物質創成科学研究科 高分子創成科学研究室の 藤木道也教授らは、化学の常識では鏡像体が絶対できるはずのない鎖のように長く繋がった光学不活性な分子(ポリシランというケイ素系プラスチック)を、オ レンジの皮やミントの葉から採れる香料分子であるリモネンのオイルに混ぜ、さらにアルコールを常温で加えて10秒かき混ぜるだけで、光学活性高分子が触媒 なしで収率100%で自然発生することを発見した。リモネンの体積比を2%から60%にすると、光学活性が1回から3回反転した。この現象は1953年に 提唱されたF.C.フランクの鏡像対称性の破れと増幅理論では説明がつかないため、新理論の登場が待たれる。
プラスチックは世界で年間2億 6000万トン(東京ドーム200個分)も生産され、その多くは左右性がない安価な汎用プラスチック。しかし今回、ケイ素系プラスチックの分子量を3万か ら10万程度[長さ30-100ナノメーター]に揃え、オレンジやレモンなど柑橘類の皮の成分から採れるリモネン(年間生産量10万トン)を溶媒として混 ぜるだけという驚くほど簡単な操作で、誰にでも光学活性高分子ができる可能性がでてきた。汎用プラスチックに本手法を適用すれば、液晶フィルム、高純度医 薬品の製造、反射防止光学フィルター、医療用器具など、高付加価値で高機能・高性能の光学活性高分子が低コストで得られ、また使用したリモネンは再回収し て何度でも利用できるため、国際競争力ある製品作りに向けた設計指針となることが期待できる。さらにポリシランは紫外部で強くらせん状の偏光を強く吸収し 50%以上の効率で発光するため、紫外光源の新素材としても有望である。さらに本発見は、鎖のように長く繋がった生命体の高分子(DNA、タンパク)がな ぜ左右非対称なのかというパスツールの時代から150年以上も続く科学上の謎を解き明かす鍵となるかもしれない。
【研究の位置づけ】
素 粒子物理の世界では南部陽一郎博士が自発的対称性の破れ、小林誠・益川敏英博士がCP対称性の破れで2008年ノーベル物理学賞を受賞されたのは記憶に新 しいと思います。この受賞や欧州CERNでのヒッグスボソンの検出実験、環境・資源・エネルギー問題などが契機となって、日米欧の化学者・材料科学者を中 心に、鏡像対称性の破れに関する基礎研究・要素技術研究が非常に活発に行われています。
地球上に生息する生命体はすべて右利きあるいは左利きの分 子からできています。例えばタンパクをつくる素材のアミノ酸は左利き、DNAの素材である糖はすべて右利きです。一方フラスコ中の化学反応では左利きと右 利きの分子(鏡像異性体)がそれぞれ等量できるにも関わらず、生命体は左右分子のどちらかしか利用していません。生命分子にはなぜ利き手があるのか?科学 者の間では生命ホモキラリティーの謎と呼ばれ、1860年にルイ・パスツールが問題提起してから150年以上も続く未解決の問題とされています。
1953 年にF. C. フランクはその起源を説明するために、不斉の発生と増幅機構を示す理論(引用回数は400回を超える有名なモデル)を提案しました(F. C. Frank, Biochim. Biophys. Acta, 1953, 11, 459.)このモデルでは、左右を決定する因子は含まれていませんが(何らかの外的要因によって)左右分子に微小な不均衡が生じると左右差が無限に増幅 し、最後には系全体が左右どちらか一方に偏るというものでした。そのような実験例が結晶・分子・高分子の世界でも自発的対称性の破れと不斉増幅・不斉増殖 現象としていくつか報告されてきました。これらは左右どちらかの不斉の発生と左(あるいは右)が増幅増殖するという現象ですが、不斉が反転しそれも複数回 反転することは理論的にも実験的にもこれまで全く知られていませんでした。
今回、オレンジやレモンの皮、ミントの葉から採取される精油の主成分で あるリモネンオイルを体積分率で2%から60%溶媒として使用すると無触媒ながら常温常圧10秒ほどで、光学不活性高分子から光学活性が自然に出現し、光 学活性が1回から3回も反転する現象が見いだされたものです。実験では、工業的に大量に使用されている左右性がない汎用高分子のモデルとして、紫外分光法 (と円二色分光法)という検査法によりらせんの発生の有無が簡単に検出できるポリシランと呼ばれる3種類のケイ素骨格高分子を用いました。
その高 分子は、1(不斉炭素を全く持たず、鏡像ができないとされていた高分子)、2(不斉炭素を全く持たないが、1に比べ炭素数が1個だけ長くやはり鏡像ができ ないとされていた高分子)、3(1, 2と違って不斉炭素があるもののが左右半分ずつ混じった、鏡像ができないとされていたラセミ側鎖の高分子)です。
パスツールの問題提起に対し、本発見からいくつかの知見を得ました。
1. 鏡像ができないとされていた光学不活性高分子であっても、ラセミ側鎖の光学不活性高分子であっても、リモネンを溶媒とすれば左右どちらかの光学活性高分子が簡単に発生する可能性があること。
2. 光学活性が固定されることなく、その光学活性が簡単に反転する可能性があること。
3. 分子量を3万から10万程度(長さ30−100ナノメーター)、鎖をつくるケイ素の数(重合度)にして150個から500個に精密制御すると光学活性が非常に効果的に出現すること。
4. 従来のモデルでは説明できないため、新しい理論の構築が必要なこと。
[原著論文]
Yoko Nakano, Fumiko Ichiyanagi, Masanobu Naito, Yonggang Yang, Michiya Fujiki
Chiroptical generation and inversion during the mirror-symmetry-breaking aggregation of dialkylpolysilanes due to limonene chirality
Chemical Communications (英国王立化学協会) (2012) DOI: 10.1039/C2CC17845A)
(2012/2/10にweb 上で掲載されています)
・英国王立化学協会が出版するChemical Communications誌は化学系学術雑誌のなかでも最も大きな影響力を持つトップジャーナルの一つ(インパクトファクターが5.8)です。
・ハイライトとして雑誌の表紙(5月号に掲載予定)に採択されました。
・本研究は、中野陽子 博士(2010.3, 学位論文)、一柳普巳子 さん(2006.3, 修士論文)、内藤昌信 特任准教授(当研究室, 元助教)、杨永刚 (ヤンヨンガン) 蘇州大学教授、藤木教授らの成果です。
・本研究は、科研費課題番号22350052(基盤研究B)ならびに積水化学 H21年度自然に学ぶものづくり研究助成プログラムから研究助成を受けました。
・大学間学術交流協定を締結したNAIST-蘇州大学共同研究の成果(責任著者:杨永刚蘇州大学教授と藤木教授)です。
[展望]
私 たち生命体は、左右のどちらかだけを使ってDNA (D(右)-糖)、タンパク(L(左)-アミノ酸)ができています。医薬品にも分子の左右性によって効能や毒性が大きく異なることが知られています。その ため医薬品の多くは分子中の左右性を厳密に制御し、高純度品として製造しないといけません。それが高コスト化の要因の一つとなって国際競争力を下げていま す。従来らせん高分子を製造するのに、例えばシトロネロールは400万円/Kgもの出発原料から数段階かけて合成し、特殊な触媒や精密な分子設計を必要と していました。
現在熱可塑性高分子であるプラスチックは世界中で年間2億6000万トン(東京ドーム200個分)も生産されています。化石資源で ある原油生産高の5−6%程度が、プラスチックを生産する炭素源として使用され、大半は燃料として消費されそしてCO2ガスとして排出されています。プラ スチックの多くはポリエチレン(PE)、ポリプロピレン(PP)、ポリエチレンテレフタレート(PET)に代表される包装容器材料、発泡スチロール (PS)に代表される梱包材料、塩化ビニル樹脂(PVC)に代表されるパイプや構造材などに使用されてきました。合成高分子は本来、DNAやタンパクのよ うに鎖状に100から10000個長く繋がった分子であり、DNAやタンパクのようにらせん構造をとり、本来ならば、触媒作用や分子認識など生命活動に類 似した非常に高度な機能を発現する可能性をもっていると考えられます。しかしながら従来は、精密設計した原料や触媒を使用し、重合条件の最適化を行い、汎 用的な合成法とは言えませんでした。
本発見は、天然資源に乏しい我が国にあっては農産物加工の際に副産物として採れる植物資源を有効活用し、年間 2億6000万トンも生産されているプラスチックを高付加価値を持った光学活性な機能性高分子に変える可能性を秘めていることです。リモネンを溶剤にして 分子量を精密制御したプラスチックを溶かしこみ、プラスチックを析出させる溶剤を加えるだけで、常温常圧、無触媒、10秒、収率100%で、光学活性高分 子材料を安全に合成できました。工業的には極めて安価に得られるラセミ体や非キラル体を高分子製造の原料に利用できる可能性を持っていることです。側鎖の 炭素数の調節だけで光学活性の制御もできることです。
このように、ヒトに対して安全で回収可能な安価なリモネンオイルのみで種々の汎用高分子が高 付加価値を持つ光学活性高分子になる可能性を秘めているため、膜法やカラム法による医薬品(片方の光学異性体が有効成分)の製造、特殊な光学フィルム、食 品包装容器、医用材料などの新しい用途への展開も考えられ、科学技術イノベーションに繋がる国際競争力(低コスト化、高付加価値)ある製品作りへの基本的 な設計指針となることが期待できます。低環境負荷・資源循環型社会システムの構築や低炭素化イノベーションの実現に向けて、一つの可能性を示すものです。
[用語解説 リモネン]
自 然界では炭素が5個つながった構造を一つの単位(イソプレン則と呼ばれる)として生命活動を司る情報分子群が形成されています。例をあげると、コレステ ロール類、性ホルモン、葉緑素尻尾部分、天然ゴム、炭素が10個つながったモノテルペンと総称される分子群(リモネンはその中のひとつ)、昆虫フェロモン など多岐にわたります。なかでもリモネンは、PRTR法に該当せず毒物及び劇物法の指定がなく、アロマテラピーとしても利用される安価で回収可能な生物由 来の光学異性体がある不斉資源。なかでもオレンジの皮やレモンの皮は産業廃棄物として処理されていたが、そこから採れるリモネンは右手構造で4000円 /Kgと安価。ミント葉から採れるリモネンは左手構造で15000円/Kgとやや高価ですが蒸留して再利用でき、従来の不斉化学原料の400万円/Kgか ら比べると2〜3桁以上安価です。
リモネンは、工業用として印刷前に行われる脱脂時の溶媒、電子および印刷工業での洗浄、塗料の溶媒に使われてい ます。また食品香料や芳香性の食品添加物、家庭用の洗浄剤、香料、ドライクリーニング、育毛剤にも使われています。東京都ではプラスチックトレイ(発砲ス チロール)の体積を減らし、運搬を容易にするための回収溶剤として使用されています。d-リモネンを含むモノテルペンは森林中に自然に存在しており、生物 由来の放出量は年間1億5000万トンから8億3000万トンにも達します。一般には柑橘類のジュースを絞ったあとの皮を廃棄する前に、有用成分(d-リ モネン)を抽出する方法で製造されています。世界のd-リモネンの生産量は年間10万トンです。ヒトに対する発癌性、遺伝毒性、臓器毒性は認められないと されています(出典:UNEP/ILO/WHO国際簡潔評価文書 No.5 limonene 1998)。
[参考文献]
1. H. B. Kagan and T.-P. Dang, J. Am. Chem. Soc., 1972, 94, 6429.
2. D. K. Kondepudi, R. J. Kaufman and N. Singh, Science, 1990, 250, 975.
3. K. Soai, T. Shibata, H. Morioka and K. Choji, Nature, 1995, 378, 767.
4. R. Noyori and S. Hashiguchi, Acc. Chem. Res., 1997, 30, 97.
5. J. M. Ribó, J. Crusats, F. Sagués, J. Claret and R. Rubires, Science, 2001, 292, 2063.
6. K. Soai and T. Kawasaki, Top. Curr. Chem., 2008, 284, 1.
7. M. M. Green, N. C. Peterson, T. Sato, A. Teramoto, R. Cook and S. Lifson, Science, 1995, 268, 1860.
8. M. M. J. Maarten, A. P. H. J. Schenning and E. W. Meijer, J. Am. Chem. Soc., 2008, 130, 606.
9. A. R. A. Palmans, J. A. J. M. Vekemans, E. E. Havinga and E. W. Meijer, Angew. Chem. Int. Ed., 1997, 36, 2648.
10. E. Yashima, K. Maeda, H. Iida, Y. Furusho and K. Nagai, Chem. Rev., 2009, 109, 6102.