2010/07/28
【概要】
独立行政法人日本原子力研究開発機構(理事長 岡﨑俊雄)の量子ビーム応用研究部門の中川洋研究員と、国立大学法人奈良先端科学技術大学院大学(学長 磯貝彰)物質創成科学研究科の片岡幹雄教授の共同研究グループは、タンパク質表面を覆っている水(水和水)がネットワークを形成することが、タンパク質が 生命機能を発現するために本質的に重要な役割を果たしていることを明らかにしました。
タンパク質等の生体分子と水との関係を明らかにすることは、 生命を理解するための根本的な課題です。生命機能の発現を担う基本素子であるタンパク質は、細胞内の水中において、その構造を巧みに変化させ動くこと(構 造の揺らぎ1))によって機能を発揮しています。この「構造の揺らぎ」には、その表面を覆っている水和水2)と呼ばれる水が重要な働きをしていると考えら れていますが、水和水のどのような性質が原因であるのかについては良く分かっていませんでした。
今回、中川研究員らのグループは、モデルタンパク 質である核酸分解酵素スタフィロコッカルヌクレアーゼ3)について、タンパク質と水和水の動きをJRR-34)における中性子散乱実験により観測するとと もに、計算機シミュレーションを行い、タンパク質の構造の揺らぎに対する水和水の影響を定量的に調べました。その結果、水和水がタンパク質の表面全体を覆 うネットワークを形成し、その水和水ネットワークの揺らぎがタンパク質の構造の揺らぎを誘導すること、すなわち、「タンパク質が生命機能を発現するには水 和水がネットワークを形成することが必須である」ことを初めて明らかにしました。
この研究は、生命活動における分子レベルでの水の本質的役割に関する極めて重要な基礎的知見を与えるものであり、今後、酵素活性機構の解明や創薬設計手法の高度化、食品保存の研究など多岐の分野への貢献が期待されます。
なお、この研究成果は、2010年7月26日にJournal of the Physical Society of Japan のオンライン版に掲載されるとともに、JPSJ編集委員会が推薦する注目論文としてEditor's Choiceに選ばれました。
【本プレスリリースに関するお問い合わせ先】
(研究内容について)
独立行政法人日本原子力研究開発機構 量子ビーム応用研究部門分子生命科学研究ユニット
生体物質ダイナミクス研究グループ (グループリーダー(客員):片岡幹雄)
研究員 中川洋 TEL: 029-282-5871, FAX:029-282-5822
国立大学法人奈良先端科学技術大学院大学 物質創成科学研究科 エネルギー変換科学講座
教授 片岡幹雄 TEL:0743-72-6100, FAX:0743-72-6109
(報道担当)
独立行政法人日本原子力研究開発機構
広報部次長 須賀 伸一 TEL:03-3592-2346, FAX:03-5157-1950
国立大学法人奈良先端科学技術大学院大学
教育研究支援部企画総務課広報渉外係 藤里尚宏 TEL:0743-72 -5026, FAX:0743-72 -5011
【背景】
生体内で様々な生理機能を担うタンパク質は、周囲の熱揺らぎにさらされながらその構造を巧みに変化させることで機能を発揮しています。タンパク質は通常、 生理環境である水中で機能しており、水環境にあるタンパク質の表面には、水和水と呼ばれるタンパク質の表面に張り付いた通常の水とは異なる水が存在します (図1)。水和水は、タンパク質表面原子との間で様々な相互作用をしています。
タンパク質がその機能を発現するためには、「動力学転移5)」と呼 ばれる240 K近傍以上の温度で活性化されるタンパク質の「構造の揺らぎ」が重要であると言われています。その揺らぎはタンパク質が水和することによって生じることが 分かっていましたが、これまで水和状態と揺らぎの関係については良く分かっていませんでした。
【研究の内容】
今回、中川研究員 らの研究グループは、モデルタンパク質である核酸分解酵素スタフィロコッカルヌクレアーゼ(SNase)を用いて、段階的に水和水の量を変化させた試料に ついて中性子散乱実験を行うとともに、分子動力学法(MD)によるシミュレーション計算を行い、タンパク質の揺らぎが水和水の構造や揺らぎとどのように関 係しているのかについて詳細な研究を行いました。中性子散乱実験は、茨城県東海村の原子力機構原子力科学研究所の研究用原子炉JRR-3に設置されている 冷中性子三軸型分光器(LTAS:図2)を用いて実施されました。
図3は、中性子非干渉性散乱実験により得られた、タンパク質および水和水の動き の大きさ(平均自乗変位)の温度依存性を示したものです。水和水の分量(水和率)が小さいときには、タンパク質、水和水ともそれらの動きは温度上昇ととも に直線的に微増するだけですが、水和率が大きな試料においては、240K以上の温度領域で、それらの動きが急激に大きくなります(動力学転移による構造揺 らぎ)。詳細な実験の結果、このようなタンパク質の大きな構造揺らぎは水和率が0.37以上で起きることが明らかにされました。水和水がないと動力学転移 は現れず、また水和水があっても水和水の揺らぎが大きくならないと動力学転移が起こらないことから、水和水の揺らぎがタンパク質の揺らぎを決定づけている と言えます。
一方、タンパク質表面における水和水の存在形態の水和率依存性を計算機シミュレーションにより解析したものが図4です。水和 率が小さい状態では、ほとんどの水分子はタンパク質表面で、他の水からは孤立した状態で配位しています。水和率を増やしていくと、0.37以上の水和率で 水分子同士の水素結合が急激に増大し、タンパク質表面における水分子のネットワークサイズが急増する(パーコレーション転移)ことが分かりました。これに より、タンパク質はかご状に形成された水和水ネットワークによって取り囲まれるようになります。
以上の中性子散乱実験と計算機シミュレーションの 解析から、動力学転移の出現に必要な水和率と水和水のネットワーク形成に必要な水和率がともに0.37であることが分かりました。更に両者の関係性をより 明確にするために、水和水のネットワークサイズとタンパク質の動力学転移の水和率依存性を比較プロットしたところ、両者の水和率依存性の傾向が見事に一致 することが分かりました(図5)。これらのことから水和水がタンパク質表面全体を覆うネットワークを形成し、その揺らぎがタンパク質の機能発現に関わる揺 らぎを誘導すること、すなわち、この水和水のネットワーク形成こそが、タンパク質の働きに必要な水の本質的役割であることが示されました。
【成果の波及効果】
こ れまでもタンパク質表面の水和構造の研究がなされてきましたが、本研究においては、中性子を用いて、タンパク質と水和水の動きを分離して定量的に観測する ことにより、タンパク質の機能発現における水和水の本質的役割を明らかにしたものです。本成果によって得られたタンパク質と水との界面での相互作用につい ての情報は、水も含めた酵素活性機構の解明や、水和水や揺らぎに着目したこれまでにない創薬設計の手法の高度化に貢献できるほか、食品の腐食防止などへの 応用も期待されます。
【用語説明】
1)タンパク質の構造揺らぎ
タンパク質の立体構造はある一つの構造に固定さ れた硬いものではなく、周囲の熱揺らぎによって構造変化する柔らかいものです。ターゲットとなる分子との結合や機能発現のスイッチングなど、タンパク質が 機能を発揮する様々な場面でタンパク質の構造変化が必要です。近年、タンパク質の構造解析に加え、このような動的な性質を解明しようとする研究が盛んに なってきています。
2)タンパク質の水和
タンパク質表面には、表面のアミノ酸と水素結合などを介して相互作用している水がありま す。この水はタンパク質との相互作用で動きが束縛されていて、通常の液体の水とは異なった性質を持っています。水和水は生体分子の構造変化とダイナミック に応答し、生体分子の揺らぎや分子間相互作用に影響を与え、代謝や情報伝達などの生理現象に密接に関わります。
3)核酸分解酵素スタフィロコッカルヌクレアーゼ(SNase)
黄 色ブドウ球菌が体外に分泌する核酸分解酵素で、タンパク質ダイナミクス研究のモデルタンパク質の一つです。アミノ酸配列をわずか1残基変化させるだけで 様々な立体構造を取る変異体を人工的に作成できるため、中性子散乱によって水和水も含めたタンパク質の立体構造とダイナミックスの関係を調べるのに適して います。
4)研究用原子炉JRR-3
茨城県東海村の日本原子力研究開発機構原子力科学研究所内にある日本最大級の研究用原子炉 で、熱出力20MW、炉心付近における最大熱中性子束は3×1014 n/(cm2sec)。照射設備及び数多くの中性子ビーム実験装置を有しており、種々の中性子散乱実験、原子炉燃料・材料の照射試験、医療用ラジオアイソ トープや核変換ドーピングによるシリコン半導体の製造などが行われ、基礎研究から産業利用に至る幅広い分野に利用されています。
5)タンパク質の動力学転移
水 和したタンパク質を極低温から温度を上げていくと、240K近傍で構造の揺らぎが急激に大きくなることが知られており、タンパク質の動力学転移と呼ばれて います。これにより、ある立体構造状態から別の状態へ構造変化することが可能となり、このような構造の揺らぎがタンパク質の機能発現に必要であるとされて います。
【下図の説明】
図1:タンパク質と水の関係のイメージ。濃い青は溶媒(バルクの水)、薄い青が水和水。
図2:冷中性子三軸型分光器(LTAS)の外観。
図3:水和率の違いによるタンパク質および水和水の揺らぎの大きさの温度依存性の違い。
図4:計算機シミュレーションによるタンパク質表面の水和構造の水和率依存性。灰色はタンパク質表面。水和水のネットワークを大きさの順に、赤、緑、黄、青で示す。高水和率では水和水のネットワークがタンパク質表面全体を取り囲んでいることが分かる。
図5:最大水和水ネットワークサイズ(青)タンパク質動力学転移(赤)の水和率依存性。