2011/12/13
【概要】
地球上に生息する生命体はすべて右利きあるいは左利きの分子からできている。例えばタンパクをつくる素材のアミノ酸は左利き、DNAの元 となる糖はすべて右利きである。一方フラスコ中の化学反応では左利きと右利きの分子(鏡像異性体)がそれぞれ等量できるにも関わらず、生命体は左右分子の どちらかしか利用していない。生命分子にはなぜ利き手があるのか?科学者の間では生命ホモキラリティーの謎と呼ばれ、19世紀後半にルイ・パスツールが発 見してから150年以上も続く未解決の問題とされている。
その謎の起源については諸説あり、新たに加わったのが、生命の海での攪拌説。生 命が誕生したとみられる35億年前の地球は、月との距離は現在の半分ほどであったため、原始の海には激しい引力による潮の満ち干の差が大きく撹拌されてお り、その渦の中で左右どちらかに偏った有機分子ができ、生命が誕生したという説である。
東京理科大学(学長:藤嶋 昭)理工学部 工業化学科 岡野久仁彦助教、 山下俊准教授、奈良先端科学技術大学院大学(学長:磯貝 彰)物質創成科学研究科 高分子創成科学研究室博 士課程2年の田口誠氏と藤木道也教授の共同研究チームは、赤色発光性レーザーに使う色素のローダミンBという物質を高分子のゲル中に少量溶かし込み、一定 の方向に撹拌しながら加熱したり、冷やしたりするだけで、高効率のらせん状の特殊な偏光(円偏光)を発生させたうえ、撹拌の方向により左右どちらの円偏光 も得ることに世界で初めて成功した。特別な化学反応試薬を一切使用せずに分子の左右を自在に発生する手法が実現することは、科学者の間では21世紀に残さ れた解決すべき課題の一つとされていた。
共同研究チームは「水の惑星に誕生した生命ホモキラリティーの謎を解く鍵は、細胞構造を模した含 水ゲル状構造にあるのではないか?そして溶液の渦巻きの方向だけで分子の左右性が自然発生するのではないか?」との仮説に基づき研究を開始した。まず、左 右構造の発生を分光的に可視化するために色素のローダミンB、細胞の構造に似た環境を作り出す材料として紙おむつにも使用される水溶性高分子ゲル化材を用 いて検討した (図 1)。
含水ゲル状構造は、室温ではゲル状態(寒天のように柔らかいが半分固まった状態)にあるが、高温ではゾル状態 (溶液のようにさらさらの状態)へ可逆的に変化することができる。そこで、縦横1cm、高さ3.5cmの角形石英セルの容器に水を99%、高分子ゲル化剤 を1%の割合で入れたうえ、ローダミンBを極く微量入れた試料を調製した。そして温度を80℃にして一旦ゾル状態にしたのち、撹拌子を毎分1500回転撹 拌しながら左右どちらかの渦を発生させ、温度を下げながらゲル状態とした (図 2)。
詳細な円偏光吸収発光測定解析の結果、右または左 の円偏光発光が発生し、その偏光状態は1年以上も安定に保持されていた (図 3)。円偏光発光の左右性は渦巻きの方向だけで決定された。しかしながら温度を再び80℃以上にするとゾル状態になって円偏光状態が完全に消失した。さら に回転方向を逆にして冷却し、ゲル状態とすると今度は円偏光発光の符号が逆になって現れた。何度でも左右どちらかの不斉構造を発生させることができ、 80℃に暖めて冷却すれば逆の方向にひねることができた。また、これらの方法だけで、分子の左右性を可逆的に何度でも発生、消失、反転することができた。 常温と80℃の間で行う簡便操作ながら円偏光度は最大3%と非常に大きな値を与えた。
本成果は生命ホモキラリティーの起源を解き明かす鍵 となるばかりか、有機溶媒は一切使わず水を溶媒にして温和な条件下、特殊な触媒や特殊環境下のもとで行う不斉化学反応であり、強力な磁場などを必要としな いで、左右分子の作り分けを可能にする次世代の不斉合成の新概念、新技術である。このことから、種々の合成色素や天然色素(現在数千種類以上が市販または 容易に入手が可能)と、紙おむつのような入手容易な高分子ゲル化剤を組み合わせることによって、室温と100℃の範囲での加熱冷却のみで左右の円偏光特性 を自在に付け加えることができ、また、溶媒は水のみを使用するため安全性、作業性に優れる。環境・エネルギー・資源にやさしい自然の仕組みに学ぶ21世紀 のものつくりとして、完全円偏光度(±100%)を示す偏光機能素子材料の研究開発にはずみがつくことが期待される。
この研究成果は、総 合化学速報誌としては最も権威あるAngewandte Chemie International Edition 電子版に掲載予定である。本論文はFrontisepiece piece に選出され、論文全文のWeb公開に先立ち平成23年9月28日に概要が同誌Webにて先行公開された。
【解説】
◎渦が生命分子に利き手を与えた
生 命分子にはなぜ利き手があるのか?科学者の間で生命ホモキラリティーの謎と呼ばれる現象の起源は、遠く果てしない宇宙に存在する円偏光光源、左利きアミノ 酸を含む隕石の落下、素粒子レベルの弱い非対称力(CP対称性の破れ)、光速で飛び出す左回転する電子、地球の自転と遠心力の結果生じるコリオリ力(北半 球は見かけ上反時計回りの運動に、南半球では時計回りの運動)、全くの偶然だとするものなど諸説がある。
しかし、少なくとも地球上の生命体は地球 表面を広く覆いつくす水なしには生きられない。実際に、生命活動を担う細胞は、構成成分の70−90%が水であり、また、外力に応じて変形できる柔らかい ゲル状の構造をしている。また、最初に生まれた生命体である細菌は、35億年前の海水中にあった有機分子を素材として誕生したと推測されている。このころ の月と地球の距離は現在の半分ほどであったため、原始の海は激しい引力による潮の満ち干によって大きく撹拌されており、その中で生命が誕生したという説が ある。このことは撹拌によって生じる渦が生命分子に利き手を与えたことを示唆する。
ところが、撹拌によって物理的なキラリティーを発現するサンプ ル溶液の報告は数例あるものの、その機能を発現する分子構造は複雑で限定されたものであった。また、この性質から形成されるキラルな場を他の分子に転写・ 保持した例はこれまでに報告されていない。撹拌によって生じるキラルな場を様々な分子に転写できれば、それにより生じる渦がホモキラリティーの起原の一つ に加わる可能性がある。
◎撹拌による不斉を転写に成功
1860年ころルイ・パスツールは試薬や生物的影響なしに、磁場や太陽光な どを使って左右の分子を作り分ける研究(今では絶対不斉合成と呼ばれる)を種々試みたものの成功例は報告されていない。一方、機械的撹拌によって生じる渦 構造や溶液の回転方向によって、右利きあるいは左利きの分子を発生させる試みが1980年ころから行われてきた。
1980年米国の研究者たちは、 地球の重力線に対して、反応管を毎分1万回転ほど高速回転発生させて発生させた時計回りの渦と反時計回りの渦を使って、どちらか一方を作り分けるテルペン 類の不斉酸化反応速度を追跡した。その結果、時計回りの渦の方が反時計回りよりも不斉収率が2倍高いことを報告した (R. C. ダハティら, Journal of the American Chemical Society, 1980, Vol. 102, 381)。しかし、他の研究者が追試実験を行ったところ結果を再現できなかった。
1981年ハンガリーとロシアの研究者たちは、地球の自転によっ て生じる海流、低(高)気圧、渦などは北半球と南半球では巻き方向が反対であることを受け、アミノ酸の重合反応では反時計回りの撹拌の方が時計回りよりも 1.5倍ほど早く進行することを報告した(K. L. コバックスら, Origin of Life, 1981, Vol. 11, 93)。1990年頃には奈良女子大学の研究者らが、太陽−地球を模した自転・公転機構を有する遠心装置を使って、右利きまたは左利きの分子を結晶化させ る実験を試みたが利き手の結晶は得られなかった(市、小城, 生化学, 2008, Vo. 80, 331)。
一方クロロフィルによく似たポル フィリンと呼ばれる水溶性の環状色素分子や線状π共役分子では世界で数グループが溶液の渦の方向(左右)だけで左手・右手のポルフィリンを発生させた例が いくつか報告されていたが、(時計回り・半時計回りの)撹拌を止めると光学活性が消失するとされていた。
1993年東京工業大学の研究者らがポル フィリン誘導体を溶解させた水溶液を撹拌することによって光学活性の発生を最初に報告した(O. Ohno, Y. Kaizu, H. Kobayashi, J. Chem. Phys. 1993, Vol. 99, 4128)。2001年、スペイン・バルセロナ大学の研究者たちは、水溶性ポルフィリン分子が凝集体を形成する過程で右利きと左利きの構造がランダムに発 生することを見いだし、利き手構造が時計回りの渦か反時計回りの渦かによって制御できることを報告した(J. M. リボら, Science, 2001, Vol. 292, 2063)。2004年には東京大学の研究者らがポルフィリン誘導体をスピンコートと呼ばれる方法で薄膜化した場合、回転方向によって右利きか左利きの構 造に由来する光学活性の発現を報告した(山口、相田ら、Angewandte Chemie International Edition, 2004, Vol. 43, 6350)。2007年には東京大学の研究者らは、(津田、相田ら、Angewandte Chemie International Edition, 2007, Vol. 46, 8198)、オランダ・アイントホーフェン工科大学の研究者ら(M. ウオルフ、E. W.メイヤーら、Angewandte Chemie International Edition, 2007, Vol. 46, 8203)によってポルフィリンやパイ共役分子でも凝集体を形成する過程で時計回りの渦か反時計回りの渦かによって光学活性信号の発生が報告されていた。 撹拌を止め、渦の発生がなくなると、光学活性信号も直ちに消失したものの、これらに示された右利きまたは左利き分子を発生させるには特別に設計された分子 が必要であり、その合成は煩雑であった。
このように、従来の研究では撹拌によって不斉を誘起するにとどまっていたが、本研究では撹拌によって不 斉の場を形成し、発光特性を有するローダミン B の分子構造に転写することができた。このことは、本系を媒介することで、撹拌によって生じる渦と円偏光といった一見異なる物理的キラリティーが結びついた ことを意味する。また、この原理を用いれば、他の機能分子にも不斉情報を付与することができるはずであり、既存の機能性分子に付加価値を与えることができ る。不斉の素となるイオン性オリゴマーは、安価な市販の試薬から一段階で合成できるため、キラルテンプレート材料として広範な分野での工業的用途が見込ま れる。
【関連リンク】
・論文は以下に掲載されております。
http://dx.doi.org/10.1002/anie.201104708
・以下は論文の書誌情報です。
Okano, Kunihiko; Taguchi, Makoto; Fujiki, Michiya; Yamashita, Takashi. Circularly Polarized Luminescence of Rhodamine B in a Supramolecular Chiral Medium Formed by a Vortex Flow. Angewandte Chemie International Edition. 26 October 2011