2015/01/08
一般に鏡像関係にある分子を光学異性体(注1)と呼んでいる。光学異性体の左右の違いで、味や香りの知覚、光学異性体の識別能力、円偏光吸収や円偏光発光特性、医薬農薬の効能や毒性が全く異なる。そのため1世紀以上にわたって研究者たちは光学異性体やそれがネックレス状に長く繋がったらせん高分子の左右を効率良くつくる方法を探し求めてきた。しかしながら化学的な合成は難しく、触媒分子の左右を精密設計し、かつ、合成条件を最適化するなど、長年の経験と高度な知識、研究者たちの感性、卓越した技術、高価な出発原料、高価で特殊な溶媒を大量に必要としている。
英国オックスフォード大学の数学者チャールズ・ドジソン(ペンネーム:ルイス・キャロル)が創作した著書「鏡の国のアリス(1871年)」の中で、アリスは子猫のキティに向かって「鏡の国のミルクはおいしくないかもね?」とつぶやいて鏡の国にはいっていく場面がでてくる。ミルクの甘み成分である乳糖には光学異性体が存在し、生物学的に異なる反応を示すことをやさしく説明した。この本が世に出た19世紀後半、フランスのヨゼフ・ル・ベル(1874年)とオランダのヤコブス・ファント・ホッフ(1894年/1897年)はそれぞれ独自に、化学物質を使わずに物理力の一つである円偏光という特殊光源(右回転と左回転がある)だけで光学異性体の左右を作り分ける手法の可能性を論じた。1929年ドイツのヴェルナー・クーンが左右どちらかの物質を選択する最初の絶対不斉光分解実験(注2)に成功した。それ以来多くの研究者たちは単一波長の円偏光源を用いた絶対不斉合成(注3)に挑んできた。いずれの研究も、円偏光源の左右を変えて光学異性体分子やらせん高分子の左右構造を制御していた。使用する溶媒の屈折率に注意を払うことも特になかった。
歴史的には今日の化学の中心テーマである化学的な不斉合成法が最初に報告されたのは、物理的な円偏光源による絶対不斉合成の概念の提案よりもずっと後の時代である。1894年ドイツのエミール・フィッシャーが(生物学的な発酵によらずに)化学的方法によって光学異性体ができる可能性を最初に論じた。1899年ドイツのマルクヴァルドとマッケンジーが鏡像異性体を動力学的に分割する速度論的光学分割という概念を提示した。1904年マルクヴァルドがメチルエチルマロン酸のモノブルシン塩を脱炭酸したのち、ブルシンを除去して光学活性(-)-α-メチル酪酸分子(収率10% ee)を得ることに成功し、化学的な不斉合成と速度論的光学分割という二つの概念を証明した。
奈良先端科学技術大学院大学(学長:小笠原 直毅)物質創成科学研究科高分子創成科学研究室の藤木道也教授と蘇州大学(校長:朱 秀林)張 偉教授の国際共同研究チームは、らせん高分子の左右の作り分けは円偏光源の波長(エネルギー)で決定され、円偏光源の回転方向だけでは決められないことを発見した。同じ右回転の円偏光源を照射しながら、波長の長い可視光(波長405-589nm)では右らせん高分子、波長の短い紫外光(313-365nm)では左らせん高分子ができた。また工業的に安価なメチルアルコール系溶媒(1リットルあたり約100円)を溶媒に用い、屈折率を1.4に制御すると、らせん誘起反応が飛躍的に効率よく進行することも発見した。
この成果は、英国王立化学協会から2014年12月23日(火)にオンライン発行された学術雑誌「Polymer Chemistry」に掲載された。
【研究の背景】研究の背景と経緯
光子(フォトン)は質量ゼロ、量子数±1のスピンを持ち、電磁力を伝える素粒子として知られる。円偏光の光子は右の円あるいは左の円を描きながら光速で進む。19世紀後半、フランスのヨゼフ・ル・ベルとオランダのヤコブス・ファント・ホッフはそれぞれ独立に、左右どちらかに回転する特殊な光源(円偏光源)を使って光学異性体の左右を自在に合成できるという考えを提唱した。1929年ドイツのヴェルナー・クーンが円偏光源を用いた低分子を使って最初の不斉光分解実験に成功して以来、多くの研究者たちが円偏光源を用いて、低分子や高分子を用いた不斉光分解、不斉合成、不斉変換(注4)に挑んできた。しかしながらいずれの研究例も、単一の波長(エネルギー)を用いて行われた研究であり、光学異性体の左右性や高分子の左右性を変換するには、円偏光源の回転方向を左から右に、あるいはその逆に変える必要があった。光学異性体(低分子や高分子)の左右を選択的に合成する科学技術は、有機化学、無機化学、錯体化学、高分子化学、光化学の根幹をなす立体化学、不斉化学、らせん化学といわれる分野である。ル・ベルとファント・ホッフは立体化学や不斉化学、らせん化学に関する理論的な基礎を築き、不斉やらせんの発生と制御に関する指導原理を研究者たちに与えた。しかしながらこれまでの定説では、円偏光源を照射して得られる光学異性体(低分子や高分子)の左右構造について、照射する波長(エネルギー)依存性については検討されてこなかった【図1】。また使用する反応溶媒の屈折率に注意を払うこともなかった。
【本研究成果の意義】
今回の研究成果は、1世紀以上にわたって検討されてこなかった円偏光源の励起エネルギー(励起波長)依存性について系統的に検討を行い、不斉(らせん構造)の発生と制御に関する指導原理に対する新知見を与える。すなわち、円偏光源を光学不活性(アキラル 注5)緑色発光高分子に照射すると、可視光の右円偏光では右らせん構造が、紫外光の右円偏光では左らせん構造(キラル 注6)高分子ができてきた。高分子の左右性は、短波長の紫外光円偏光フォトン(高エネルギー)と長波長の可視光円偏光フォトン(低エネルギー)では全く逆に作用した【図2】。同一波長(エネルギー)であれば、従来の指導原理とおり、円偏光源の回転方向を右から左に変えれば、らせん高分子の左右を反転できた【図3】。また不斉光反応時に、屈折率が1.4のアルコール系溶媒(1リットルあたり100円程度)を用いると反応が極めて効率よく進行することも見いだした。
本実験から、クリーンな光エネルギーである円偏光源の左右性と照射波長(照射エネルギー)および溶媒の屈折率という三つの要因が関わっていることがわかり、緑色の円偏光発光高分子ナノ粒子の発生と制御にも成功した。円偏光源は、直線偏光板と波長板を組み合せるだけで簡単に発生できる。紫外光用は市販されていないが可視光用であればA4サイズが数千円程度で市販されている。このように、不斉触媒や不斉な化学物質を一切使用することなく、反応溶媒の屈折率を制御して短波長の円偏光フォトン(高エネルギー)と長波長の円偏光フォトン(低エネルギー)を自在に組みあわせるだけで、らせん高分子、将来的には光学異性体(低分子)の左右性を、常温常圧下、無触媒で合成できるかも知れない。らせん高分子のみならず、医薬農薬の分野で要求されている光学異性体(低分子)を製造する工程の一部を短縮化するなどの応用展開も期待できる。
【用語解説】
(注1)光学異性体:アリスが体験してきた現実の国と鏡の国のように、右手と左手のような関係にある分子が多数存在する。実際にアミノ酸は左(L-体)と右(D-体)があり、糖は左(L-体)と右(D-体)がある。フラスコ中では左と右が50:50で合成されるが、私たち生命体はL-アミノ酸でできたタンパク分子とD-糖でできたDNA/RNAからできている。L-体とD-体では、味や香り、医薬・農薬の効能や毒性が全く異なる。
(注2)絶対不斉光分解:円偏光源を用いて、左右の光学異性体が50%:50%存在する状態から、左右分子のどちらかを選択的に光分解する手法。
(注3)絶対不斉合成:物理的不斉源(ここでは円偏光源)を用いて、アキラルな分子からキラル分子である光学異性体の左右をつくりわける手法。化学的な不斉源を用いる不斉合成と区別されている。
(注4)不斉変換:円偏光源を用いて、光学異性体の左手構造から右手構造へ、右手構造から左手構造をスイッチさせる手法(アリスが現実の国と鏡の国を行き来しているようす)。
(注5)アキラル:キラルでない分子。
(注6)キラル:右手と左手の関係にある分子。
【掲載論文】
論文タイトル:Photon Magic: Chiroptical Polarisation, Depolarisation, Inversion, Retention and Switching of Non-photochromic Light-emitting Polymer in Optofluidic Medium
著者:Michiya Fujiki,*a Yuri Donguri,*a Yin Zhao,*b Ayako Nakao,*a Nozomu Suzuki,*a Kana Yoshida*a and Wei Zhang*b
(*a奈良先端科学技術大学院大学、*b蘇州大学)
論文掲載誌:Polymer Chemistry, 2015, DOI:10.1039/C4PY01337A