動物の形づくりの巧妙で頑健な仕組みの謎を解く
生物時計が背骨の構造を決める
動物の器官や組織の形は、1個の受精卵から増殖、分化してできた多種多様な細胞が、遺伝子の情報に基づいたダイナミックな相互作用を展開して構築されます。この動物の「個体発生」や「形態形成」をめぐる複雑な仕組みを探求しているのが「遺伝子発現制御研究室」です。別所教授は「マウスや、小型の魚類のゼブラフィッシュをモデル生物として使い、細胞内で遺伝子が発現する様子や細胞の移動を可視化することにより、細胞同士の相互作用によって生物の形が作り出される仕組みを明らかにしてきました」と話します。
これまでの大きな成果は、マウスの胎内で、受精卵が発生中期の「胚」になった時に、背骨の元になる構造(分節構造)が整然と作られる現象の精緻な仕組みを解明したことです。この構造は、細胞が集合した塊(細胞群)が、ブロックのように同じサイズに区切られて「体節」となり、規則正しく積み重ねられるパターンです。
別所教授は、体節が作られるとき、生物時計の調整をするノッチシグナルという細胞間の情報伝達系の作用により、個々の細胞内の特定の遺伝子群が同調し、一定の周期(リズム)で遺伝子の発現の「オン」「オフ」の切り替えを繰り返す「振動」という現象が生じることを突き止めました。この仕組みにより、一定の数、同じサイズの体節を生み出していたのです。ちなみに、マウスの周期は2時間で、ノッチシグナルにより数分単位の周期の微調整が行われます。
形の乱れを素早く回復
このような業績に基づいて、別所教授が挑んでいるのが、胚の体節形成時に、熱ショックや薬剤投与など環境を変化させると、生物時計のリズムなどが一時的に乱れて変形した体節が生じるものの、素早く立ち直って修復するという頑丈(ロバスト)な機構の解明です。胚や胎児のときに、健常な体づくりを進めるための予防法などに有力な手掛かりを得ることにもなります。
この研究では、特定の遺伝子を欠いたマウス(ノックアウトマウス)に薬剤を投与して、ロバスト性への影響を見る実験などから、ノッチシグナルの作用に関わる因子の遺伝子が主要な役割を担うとみています。別所教授は「薬剤処理などを行うと、細胞同士の同調性が壊れて、一時的に個々の細胞内の遺伝子の振動がバラバラの状態になります。ロバストに関わる遺伝子を欠失したマウスでは再び同調するのに時間がかかって、修復が間に合わないということでしょう」と推測します。
知的好奇心を優先
別所教授は、京都大学医学部出身で、同ウイルス研究所助教授を経て、2004年に本学教授に赴任しました。「本学着任時から始めた背骨の形態形成の課題については、ほぼ解明されつつあるので、研究室で取り組むテーマを老化細胞の除去やストレス対応に関わる遺伝子などに幅を広げて、新たな展開を目指しています」と抱負を語ります。
別所教授が研究生活で得た心構えは「知的好奇心を満たすテーマを優先することが大切。単に役に立つ、面白いだけでなく、心からワクワクするテーマに挑んでほしい」。現在、本学のインドネシア・オフィス長も兼務していて「アジアの留学生に基礎科学を志す人が増えていて頼もしい」と期待します。
一方、自宅では、盲導犬の繁殖ボランティアを続けています。「数年前から、母犬を預かり、家族で出産、子育ての世話をします。犬に触れるのが楽しく、日課になっています」。
細胞集団の社会性
松井准教授は、器官や組織が形成されるときに、細胞同士が情報を交換して相互作用し、新たに細胞集団としての機能を発揮するという「細胞の社会性」に関わる仕組みの解明に取り組んできました。これまで、細胞が自律的に集合することが、器官の立体構造が形成される際の引き金になることを突き止めています。
新たに着手した研究テーマは、「なぜ組織の中で老化細胞が蓄積されるのか」という課題です。解明されれば、老化細胞を効率的に除去して組織の機能低下を防ぐことができ、老化に関連する皮膚などの病気の予防、治療に役立つ知見が得られます。
老化細胞を押し出して排除
今回の研究のきっかけは、ゼブラフィッシュの表皮の組織で、死んだ細胞が、他の細胞により、能動的に体外に押し出されて排除される現象を発見したことです。不適な細胞を他の細胞が積極的に排除する「細胞競合」という仕組みが働いているとみられました。
そこで、この機構を検証するために、人工培養した別の上皮組織の細胞を材料に行った実験では、「上皮組織に出現したがん細胞や死細胞から、周囲の正常細胞に向けて、細胞間相互作用の仲介因子であるカルシウム(Ca)イオンが濃度を上昇させながら波状に伝わることにより、正常細胞が集団移動して、変異細胞を取り巻き、体外に押し出す」という仕組みを明らかにしました。
松井准教授は「変異した細胞を除いた時に、それが欠失してできた組織の穴を埋める形で細胞が移動するケースは、特に身体の表面でバリアの役割をする皮膚で多いと考えられます。若い正常細胞を活性化するなど新たな老化予防のモデルとしても研究を進めていきたい」と語ります。
松井准教授は、東京大学大学院農学生命科学研究科を卒業後、米国Salk研究所博士研究員などを経て、本学に赴任しました。研究に対する心構えは「まず、目の前の現象を正確に理解すること。それが新たな発見につながるかどうか、真摯な気持ちで実験を繰り返して確かめることが大切です」と強調します。動物への愛着は研究にとどまらず、奈良市が行う保護猫の活動に賛同し、譲り受けた猫を自宅で育てています。
松井 貴輝准教授
ストレスに反応する遺伝子
秋山助教は、ゼブラフィッシュにストレスをかけた後、回復するまでの行動を観察し、個体によってストレス応答のばらつきが生じる仕組みについて、その時に働く遺伝子と関連づけて調べています。
これまでの研究により、秋山助教らは、ゼブラフィッシュの胴体の左右差を決める器官(クッペル胞)の細胞は、あらかじめ不揃いのパターンで作られ、環境の変化など状況によって適切な細胞が集まって器官が形成されるというストレス機構を初めて突き止めています。
その成果から、今回はストレスに柔軟に応答する集団を形成する「個体レベルの社会性」を検証する狙いがあります。実験は、ゼブラフィッシュの皮膚の抽出物を水槽に入れると、仲間が捕食者から襲撃を受けたことを察知する危機感のストレスにより、個体が底に沈み、回復すると上昇する行動の時間差などを画像解析。同時にストレスを感じると分泌されるホルモンなどの遺伝子の発現状況を解析し、比較する方法で調べています。
秋山助教は「ストレス応答の個体差に関連する遺伝子は、ストレスホルモン関連以外にもあるとみられる結果も出ています。共通の遺伝子を持つ集団の中で、なぜストレス応答の強弱があるかについては謎が多く、そこに迫っていきたい」と話します。
秋山助教は本学の出身で、学生時代も別所研究室に所属していました。「生物の研究は、毎日手を動かし、観察している人しか気づかない何かがあり、その感覚を大切にしたい」と強調します。
日頃、研究で動物を扱っていますが、趣味は自宅のベランダでの野菜づくりです。「それでも研究室のグループチャットで犬の子どもが生まれたと報告があるとなごみます」。
秋山 隆太郎助教
細胞表面の精密な微細構造
稲葉助教は、ゼブラフィッシュの上皮組織ですべての細胞の表面に生じる「マイクロリッジ」という微細で精密な構造が形成される仕組みや、その機能について研究しています。
マイクロリッジの構造は、突出したひだが等間隔に並んで指紋のように渦を巻いており、細胞が動いても、そのままのパターンを保ちます。主成分は細胞骨格を形成するタンパク質のアクチンですが、複雑な構造の形成過程や機能は不明です。ただ、人の眼の角膜や、副鼻腔の内側の粘膜にも同様の構造があることから、「粘液を保持し、外界からのバリアとして、病原体の感染を防いでいるのではないか」と示唆されています。
稲葉助教は、この構造の形成に必要な物質を調べるため、細胞の遺伝子を欠失させた個体の変化を調べる方法で研究。組織を曲げて突出をつくる性質があるBARドメインタンパク質やタンパク質をつなぐリンカー分子が関与していることがわかりました。さらに、粘液の主成分である糖たんぱく質のムチンが関わっていることも判明し、謎だった微細構造の実態に迫りつつあります。
稲葉助教は「このような複雑で重要な構造がどのような仕組みでいとも簡単に作られるか知りたい。そして、角膜の粘膜が乾くドライアイなど人の病気の治療に役立つような研究も進めていきたい」と意欲をみせます。
「毎日が発見で、どんな小さな結果であっても自分が世界で初めて見ると思うと感動します」と稲葉助教。大阪大学大学院生のときに出会った夫の稲葉真史・京都大学助教も同じ分野の研究者で、自宅で実験結果について議論することも。「休日は2人の子どもと虫取りやザリガニの観察に出かけるのが何より楽しみです」。
稲葉 泰子助教
世界標準の研究を手掛けたい
研究室に所属する博士後期課程の学生9人のうち6人が留学生で、いずれも基礎科学分野の発生生物学を研究しています。同2年生のムハマド・ナズマル・イスラムさんはバングラデシュの出身で、天然由来の生理活性物質を研究していましたが、「遺伝子の研究をしたい。それなら日本が世界標準」と来日しました。
本学では、別所教授らと「環境の変化があっても動物の胚の形態形成を正常に保つ遺伝子のロバスト性」をテーマに研究を続けています。「本学は様々な国の人が集い、文化をシェアしているところが素晴らしく、今後もアカデミアで研究を続けたい」と話します。趣味はガーデニングや史跡めぐり。クリケットやサッカーも得意です。
ムハマド・ナズマル・イスラムさん