経営協議会委員・飯田豊彦氏(株式会社飯田代表取締役社長)に聞く
新たに奈良先端科学技術大学院大学の経営協議会の学外有識者委員にご就任いただいた飯田豊彦氏は、奈良を代表する銘酒「長龍」の醸造メーカーのトップであるとともに、系列23社を束ねる飯田グループの総帥です。また、社長のご母堂で株式会社飯田の前会長だった故・飯田祐子(さちこ)様には、本学の創設期以来、長きにわたってインドネシアからの留学生の受け入れや修学をご支援いただきました。飯田社長の委員就任に際し、改めて祐子様のご遺功を偲ぶとともに、委員としての抱負や本学への期待などを伺いました。
――「長龍」の醸造販売を始めとして、飯田グループは多角的な事業に取り組んでおられますね。
飯田社長 もともとは1923年、祖父が大阪・八尾市で酒の小売を始めたのが社業の起こりです。その後、卸売りを中心に事業を広げ、酒類の製造・販売・輸入、物流や飲食等と業域を拡大してまいりましたが、基本は「酒に関する仕事」ということになります。
近年は、日本酒だけではなく、アルコール飲料全体の売り上げが漸減傾向にあります。少子高齢化などの社会構造の変化や嗜好の多様化もあってか、若年層を中心に一部にアルコール離れのような現象が見受けられ、その点に関しては危機感を持っています。 昨年の春に、長龍酒造のすべてを楽しんでもらえる公園施設「長龍ブリューパーク」を奈良県北葛城郡広陵町にオープンさせました。これも、もっと多くの人に「酒の楽しみ」を知ってもらいたいとの思いからです。醸造蔵に隣接する施設になっており、飲食スペースやショップコーナーのご用意はもちろん、平日は館の前の芝生広場も開放し、市民のみなさんに喜んでいただいています。ちなみに、奈良の酒造会社ということで、特産の吉野杉を使った樽酒も造っていますが、樽酒を瓶詰にして販売したのは当社が日本で初めてです。
「お酒を楽しんでもらいたい―。」創業以来、事業の根幹にある変わらない精神です。
昨春オープンした「長龍ブリューパーク」。酒文化に親しんでもらうための公園施設です。
――本学の印象や、経営協議会委員としての抱負などをお聞かせください。
飯田社長 大学の規模は大きくないですが、そこで行われている研究や教育は極めて高い水準にあり、国際交流も活発という印象を持っています。課題があるとするなら、ひとつは知名度でしょうか。私たちの業界では、酵母研究など、バイオサイエンスの関係で名前が知られているところもありますが、一般社会での知名度には、やはり課題があるでしょう。大学と地域、大学と市民の関係をさらに深めることが必要だと思います。外部とのつながりの輪を広げる上では、私のような「外にいる人間」だからこそ、何かお役に立てることがあるかもしれません。
また、高度な研究力と教育力を活かしたリカレント教育にも期待しています。私自身、社長に就任した後に神戸大学で経営学のMBA(Master of Business Administration)を取得し、さらに東京大学のEMP(Executive Management Program)コースで学ぶ機会を得ました。いずれも大変有益なものでした。特に後者は、民間各社のトップマネジメントや官僚、弁護士などが業種・業界の枠を越えて参加するプログラムで、教授陣も全学からさまざまな専門の先生方がお見えになり、とても刺激的な議論が交わされました。
この経験やネットワークが現在も財産となっていますが、強調したいのは、異分野の人間が交わる「場」や「コミュニティ」、そこでの気づきや発見の大切さです。奈良先端大でも1研究科体制に移行し、分野横断型の研究や教育が進んでいると聞きますが、現役の学生のみならず、社会人学生なども交えながら、「多様な人々が交流する場」をつくり、提供してもらいたいと思います。自身の経験も振り返るに、これからの社会を牽引するリーダーには、そういった学びが必要だと感じています。
――お母様との思い出や、インドネシア人留学生の支援活動についてお伺いします。
飯田社長 母は創業者の長女で、夫である父の早逝に伴い若くして社業を担うことになったのですが、90年代に酒類業界の規制緩和が大きく進み、事業環境が一変したのを機に私が経営を引き継ぎました。舵取りを託された際に、「社長と副社長の距離は、副社長と一般社員のそれより大きい」と、トップの責任の重さを諭されたのを覚えています。
留学生支援に関しては、母が中国に旅行した折に出会った通訳の青年がとても好人物で、彼が日本への留学を希望していたことから、まず「アジアの有為の若者をサポートしたい」という気持ちが芽生えたようです。
それが「インドネシア」になったのは、当社の奈良漬けの原材料となる白瓜の栽培を、インドネシアの農家にお願いしていたことがきっかけでした。契約栽培を仲介する現地のビジネスパートナーが王族ゆかりの地域の名士で、インドネシアの大学にもパイプを持っていたことから、そこから奈良先端大の吉川寛教授(現・名誉教授)へとお話がつながったようです。先生方とご相談し、「10人の博士をつくろう」という目標を立てて、1995年に支援プログラムがスタートしました。留学生の滞在には、当社のあやめ池の独身寮の一部を提供させていただいたりもしました。
以後、長く活動を続ける中で、奈良先端大の先生方もよくインドネシアに出向かれ、母もそこにご一緒させていただくのを楽しみにしていたようです。さらには同窓会も立ち上がり、80歳の傘寿を祝う会には、かつての留学生やその家族のみなさんが多数来日された上に、記念の肖像画まで寄贈いただき、たいそう喜んでおりました。残念ながら昨年、満83歳で鬼籍に入りましたが、インドネシアとの交流は、母の人生にとってかけがえのない宝物だったと思います。
かつての留学生とその家族が参集した傘寿の祝い
記念に贈られた肖像画
――「飯田奨学生」からはインドネシアの多くの大学教授、さらには副学長や学長候補者など
を輩出していると伺っています。国際的な人材の育成・交流に貢献された祐子様に、改めて感謝と敬意を表します。
本日はどうもありがとうございました。
飯田豊彦氏ご略歴
<学歴>
1986年3月 東京大学経済学部 卒業
<職歴>
1986年4月 キリンビール株式会社 入社
1991年4月 株式会社飯田 入社
1996年5月 同 常務取締役
2002年5月 同 代表取締役
長龍酒造株式会社 www.choryo.jp